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自然農法が宗教性を帯びてくる必然性 [自然農法:基本論]

 小生には少しばかり植物と会話できる。そう思える。もう10年ほど前のことであるが、心の中で、ときには声に出し、盛んにヤーコンに話しかけたものだ。目新しい、マイナーな野菜につき、最適な栽培法がわからなかったから、実に真面目に彼らに話しかけた。ヤーコンがすくすく育って型のいい芋をたくさん付けてくれるようになるには自分はどうしたらいいのか、彼らの気持ちを聞きたかったからである。機会あるごとに何度も何度もそうした。そうしたところ、かすかに、なんとなく、不十分ながらもモワーッとした返事が彼らから返ってきたような気がした。その後、まずまずうまく栽培できるようになり、今はそこまで真面目に話しかけることはない。よって、ヤーコンから何も返事は返ってこない。
 こうした過去の経験、少しばかり植物と会話できる、というものは、自分勝手に想像しただけのものであったのかもしれない。というのは、ヤーコンの栽培に当たって彼らの最適な環境を探り出していただけのことであり、あれこれ自分の頭で思い巡らすなかから、その答えが自然と自分の頭の中にモワーッと浮かんできたのかもしれないからである。たぶん、そういうことなのであろう。
 だが、しかし、何かしらヤーコンが“こうしてほしい。そうしてくれれば、お芋をたくさん作って差し上げるよ。”と言ってくれたような気がするのである。神がかっている、そうした世界。それを経験した。
 これを随筆にして「ヤーコンの詩」なるものを書いた。自分の正直な気持ちを書き綴ったのであるが、自分が感じ取ったモワーッとしたものをかなりスキッとした表現にしたから、若干創作的になってしまったのは否めない。そこは許されよ。
 
 無農薬・無肥料栽培、いわゆる自然農法に果敢に挑戦された先駆者は何人もいらっしゃるようだが、多くの方が“毎日畑に行って植物に会い、植物に聞け。そうすれば、自ずと、どうしたらいいか、植物が教えてくれる。”といったようなことをおっしゃっておられる。
 小生の場合も、まさにこれと同じだ。それが、会話となって感じ取れた気がするのである。
 他人からすれば、“そんなバカな。植物に霊魂でもあって、魂同士がやり取りしたのか? これは完全な宗教だ。”ということになるであろう。小生も霊魂なんてとても信じられない。でも、ヒトから少なくとも脳波は出ている。この脳波なり、何か別のエネルギー波なりがヒトから出ていて、それが植物に感知されもしよう。その逆も有りだ。生き物とはなんぞや、といえば、それは単なる物質ではなく、エネルギーが渦巻く実体があるもの、と考えるしかない。外界からエネルギーを取り入れて、生体内でエネルギーを渦巻かせ、内から外へもエネルギーを発する、それが生き物と言えよう。動物も植物も、生き物としてはどれだけの違いがあるわけではなく、同じ生き物として同等に扱っていい。

 最近知ったのだが、植物にはヒトの感情を感知する能力を十分に備えているという。それを紹介しよう。 出典:わたしんちの医学革命と雑多な情報
 植物の意識についての研究の端緒を開いたのは、ポリグラフ(うそ発見器)の専門家で、CIAの尋問官であったクリープ・バクスター博士です。博士はあるとき、ガルバノメーター(微弱電流計)を使って、ドラセナという観葉植物が水をどのように吸い上げるのか観察していました。
 水を吸い上げたときの葉の電導率は上がるはずだったのが、記録計は逆の下降線をたどったのです。人間でいえば、ゆったりと気分を落ち着けたくつろいだ状態と同じ反応を示したわけです。
 そこで博士は、くつろいだ状態を示すなら、恐怖を与えたらどうなるだろうと、手っ取り早く葉を燃やしてみたら、と、そう思った瞬間、メーターの針が勢いよく跳ね上がったのです。
 びっくりした博士は、この体験によって、「植物が人間の感情を読み取る能力を持っている」、という驚愕の事実を発見することになったのです。
 その後の追認テストでは、たまねぎ、レタス、オレンジ、バナナなど25種類以上の植物や果物を使って、同じ結果が得られたことが確認されています。
 次はそれらのほんの一部です。信じられない方もいらっしゃるかもしれませんが、すべて実験によって証明されている事実です。
・植物には過去を記憶する能力がある
・植物と植物の間、さらに植物と動物の間で、たえず情報通信が行われている
・植物は自分を世話してくれる、あるいは自分に好意を示してくれる人間に特別な感情を抱き、どこにいてもその人の想念を監視している (引用ここまで)

 最初のテストは別として、列記された3項目のような、そこまでの心が植物にもあるなんて、なんだか眉唾ものに思えるが、これを全否定することはできないであろう。
 もし植物がこうした能力を持っているのであれば、同じ生き物であるヒトも同じ能力を持っていてよかろう。いや、これは有る、と考えるべき性質のもので、それが感知できないというなら、ヒトのその感知器が錆び付いており、鈍感になったり、無反応に陥っている、と考えたほうが正解であろう。
 現代の自然科学では、バクスター博士の論はあまりに不可解なものであるからして無視されており、そのようなものは非科学的とされてしまっている。
 それも止むを得ないことではあろう。人知なるものは、アインシュタインが言うように、この大自然の真理のうち無限小の事象しか解明できていないのであるからして、目新しいものはあれもこれも非科学的とされるのは必然のことである。特殊相対性理論が発表された、その当初は、まさにそのような扱いがなされたのであるからして、いつの時代も同じだ。
 よって、こうしたものは“神がかっている。宗教的だ。”と言われるのであろうが、そう言われたとしても、むきになって反発する必要はなく、素直に“そうだ。神がかっている。宗教的だ。信じたい人だけ信じてくれればいい。”と、否定論者の言うことは受け流してしまえばいい。そのうち、だんだん科学的に解明されるようになり、それは随分と年月がかかるであろうが、より広く理解されるようになり、真理がまた一つ明らかになる、そのようになることを期待しよう。

 さて、これより本題に入る。幾多の自然農法先駆者はけっこう宗教的と言われる。
 「百姓モドキの有機農法講座」というサイトに、過去の有名な自然農法先駆者についての評価がなされている。それによると、次のように書かれている。
 日本では3師(岡田茂吉、島本覚也、福岡正信)が自然農法の代表的な先駆者でしょう(それぞれ原理、技術、広報担当)。
 元大本教信者であった岡田茂吉は天(神)の啓示により「自然農法」の理念と原理を知ったと述べています。島本覚也は、出口王仁三郎(二代目大本教教祖)の指示で酵素を研究、後に高炭素資材を微生物の餌に最大限活用する「微生物農法」を創始します。やはり、彼も天の啓示と語っています。3人目は福岡正信です。自身の体験と思考から、農を哲学(自然農)にまで押し上げて(追いやって)しまいました。(引用ここまで)

 前2者は完全に宗教者だし、3人目の福岡正信とて農業を哲学そのものにしており、宗教と哲学の境はあいまいもことしており、これも宗教的といっていいだろう。 
 そして「百姓モドキの有機農法講座」の著者は次のように言っている。
 “実体”:全て(物質、非物質に限らず)を構成している“もの”。その“もの(光の珠)”を誰でも“みる”ことができる。見え方は次第に変化し最終的に、王冠のチャクラ(サハスラーラ)と呼ばれる“光の輪”となる。
 この言葉も何やら宗教的に思えてしまう。

 こうして、自然農法先駆者も、今、活躍しておられる方も、皆が皆、宗教者であったり、宗教的であったり、宗教じみた言動をなさっている。
 小生は、今、「百姓モドキの有機農法講座」をメインにして自然農法に真剣に取り組み始めた。
 自然農法に共通しているのは、無肥料である。“無肥料で農作物が育つはずはない。同じ畑で肥料なしで農作物を作り続ければ、土地はやせていき、まともな野菜が収獲できるはずはない。化学肥料は良くないが有機肥料をたっぷりすき込むと良い。”というのが、慣行農法の常識であり、これは絶対的なものである。
 この常識を非常識として捉え、有機肥料さえも否定し、無肥料という非常識から出発するのが自然農法であるからして、その先は全部が全部、非常識のやり方となる。たとえば連作を避けよと言われる野菜も連作栽培する。よって、そんな自然農法をやる御仁は変人扱いされ、たとえそれが成功したとしても、それはいかがわしいものとして誰も相手にしない。
 当の本人も、非常識なやり方という思いがあるから、なぜに成功したのかと問われれば、一番のポイントのところは現在認められている自然科学の常識から逸脱した説明しかできなくなり、よって、それを聞く周りの者は「宗教的だ」との烙印を押すことになる。また、説明している者も、現代の自然科学では説明ができない事象を多く見ているから、これは神がかっているといった表現をするしかない場面がどうしても出てくるであろう。
 これでもって、自他ともに「宗教的だ」ということになってしまうのではなかろうか。
 
 こうしたところに自然農法は宗教的にならざるを得ない一面があると思うのだが、本質的には、また違った面で宗教的であろう。
 人間と植物の関係をとことん突き詰めていくと、哲学的思考をするしかなくなり、「意識」とは何か、「生き物」とは何か、といった形而上学的思考に入り込まざるを得ない。そこからの結論は何も出てこない感がするが、そうした思考はつとめて宗教的でもあり、それは仏教やそれに類する宗教が得意とする分野であろう。
 小生は、その入り口の所でギブアップしてしまい、とても論評できる立場にはないが、なんだかそのような気がする。

 いずれにしても、自然農法というものは非常に奥が深いように思う。これは、気候・気象は毎年くるくる変わる性質のものであるし、畑1枚1枚、土壌条件が皆、違っているがゆえに、完璧なマニュアルは作りえない性質のものである。臨機応変に対処するということになってしまう。
 常識を非常識と捉え、手探りであれこれ試行錯誤しながら、うちの畑でのだんだんより良い手法を見出していく、それしか方法がなさそうな自然農法である。
 それがうまくいった暁には、小生も、また、宗教じみた言動をすることになるかもしれない。それがいつになるか、随分と先になるではあろうが。いや、現実問題としては、自然農法へのチャレンジに失敗し、元の慣行農法に戻ってしまっている、その可能性の方が高いかもしれない。

(参考)関連記事
 自然農法をいろいろ調べていくと摩訶不思議なことが出てくる自然界の現象
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